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(やっと)3冊目、きみはポラリス

誰かが昔何かの雑誌で言っていた。

(創作のために)幸せになりすぎないようにしているんです、と。

それに影響されてからか私にとって秋とは

「わざとちょっと切なくなりたい季節」になりつつあった。

 

願えば叶うのか、何かと毎年秋になると

ちょっと切なくなることがいっぱい起こった。

切なさは人の感情をかき乱してやまないもので、

私はいささか面倒な願いをしてしまったものである。

 

集中力を活躍させたい場では感情に振り回されるといけない。

いかに何も気にしないか、優先度を比較して

焦点を当てたい場所を絞り込むか。

そういうことを繰り返していると

心が空っぽになったかっぱの頭の皿のようになる。

何だか自らが対処できるだけの領域をただ

ぐるぐると見回りしているような気分になる。

 

心の面白いところはそれでも干上がった皿そのものではなく

スポンジみたいに結局は何か動かされるものを求めて

器を広げて待っているというところである。

 

対処できない領域と言えば知らないこと、例えば人の気持ち。

今年あと50冊本を読むと言っていた。未だ2冊しか読んでない。

何だかきゅうに恋愛小説を読みたくなってしまった。

 

 

「人は生まれながらにして、恋を恋だと知っている」

「感情の宇宙を限りなく広げる、最強の恋愛小説集」

昨日のキャッチコピーではないけれど

装丁と同じくらい文庫本の後ろのあらすじ部分は重要。

これは面白そうと思って手に取ったのは

三浦しをん著「きみはポラリス

3連休と、3連休明けの電車の時間で少しずつ楽しめた。

 

 

短編集は久しぶりに読んだ気がする。

長くはない持ち場で存在感を光らせるストーリー達。

実に様々な恋(時に愛)のかたちがあるのだなと気付かされる。

 

もしもいつか、私たちの心が遠く隔たれてしまう日が来てもこの笑顔はいつもわたしのどこかにあり、花が咲いて散って実をつけるみたいに完璧な調和のなかで、私の記憶を磨きつづけるのだ。 (「森を歩く」より)

 

八歳の冬の日からずっと、強く輝くものが私の胸のうちに宿っている。夜道を照らす、ほの白い一等星のように。それは冷たいほど遠くから、不思議な引力をまとっていつまでも私を守っている。(「冬の一等星」より) 

 

中村うさぎさんによるあとがきも秀逸だった。

ポラリスとは北極星のことであり、

よく「恋」と「愛」の違いなんかが論じられるけれど

星座をつくる星のようにそのふたつは

どこかでつながっているのかもと思いを馳せられた。

 

 

小説は人の心に寄り添い、個人個人の生き様や

その人(登場人物あるいは著者)を作った人生が

文字になって語りかけてくる。

自分ではない誰かの心に寄り添う。感じる。考える。

心を知ることでちょっと優しくなれる気がした。

あるいは自分の中に燻る言い表せない気持ちを

かわりに叫んでくれることもある。

それが小説のいいところであり魅力だな。

 

楽しいと思うことや、好みの食べ物や、怒りを覚える事柄は、年月とともに少しずつ変化していくのに、だれかを好きになったときのときめきや恥ずかしさや欲張りたくなる気持ちやらには、あまり変化が見られないような気がする。(「私たちがしたこと」より) 

 

小説の中でもとりわけ恋愛小説は、

その感情を訴えてくるところが切ない。

そのくせして月ほどの明るさがなくても

帰り道を見守る星空みたいに妙な安心感を与えられる。

やっぱり秋はちょっと切なくなってしまってもいいか。