「じわる派」の苦悩

つくづく直感力の無い人だと思う。

 

ぱっと見普通なのにずっと見ているとじわじわくる画像なんかを見て「じわる」という表現がある。私は最近それを応用して寒がっている友人の背中に手を当てて2秒くらい経った後に「じわるかい?」と聞くのにはまっている。眠いわけではなくとも私の手は基本あたたかい。冬限定かもしれないけれど、友人たちはけっこう喜んでくれる。

 

そう、私は直感力派より「じわる」派なのかもしれない。

 

衝動買いをめったにしないからひとめ惚れをしないタイプなんだと思う。何かが終わってみて、最終的に良かったなと思うのは最初にこれと決めたものではなくて二番目以降のものであったりする経験をする傾向にある。でも、一度これと決めて悩み苦しみながらよい方法を模索するのも嫌いではない。

 

つまり、直感力がなくて困っている。

 

先日その困りごとを友人たちに打ち明けてみたところ、「じわる」の正体は「ケセラセラ」なのかもしれないと思った。たとえば、アイデアも降って来るのを待つばかり。締切があるものなら火事場の馬鹿力が発揮され大降り状態になることもある(そしてなるようになる)けれど、くもり空のなか傘を持ち歩きつつもやもやしていることが恒常的だ。

 

パッと決めて、「これでよかった」と思える人、パッと決めてしまえる力がある人に憧れる。「じわる」派にもきっといいところはあると思うしこれまで「じわっ」て切り抜けてきたけれど、それでも直観力が必要とされる場面がこれからの人生であるだろう。

 

「どうすれば直感力がつくかな?」と相談してみる。

 

遅刻するってわかってる電車の中で目的地に向かっている間の時間、ぐわ~っと様々な考えが押し寄せひらめくという人がいた。きっと私にも、そういう瞬間が見つかるかもしれないよ、と言ってくれた。

 

心当たりがある。お風呂に入っているときなんかがそうだ。お風呂場の風景とシャンプーのパッケージくらいしか情報というものがないなか、しばしば世界と切り離されたような感覚になりとんでもないアイデアが浮かぶのだ。しかし悲しいかな、髪を乾かし終わる頃、水分と一緒にお風呂場でのすばらしき産物たちはどこかに吹き飛んで行って私に忘れられてしまう。

 

お風呂場は情報が限られた環境だったからこそひらめきが多かったのかもしれない。ということは情報を頼りにしすぎていることが原因なのかも。

 

暮しの手帖」の編集長、松浦弥太郎さんは彼の著書「考え方のコツ」で、安易に得られる知識や情報より自分の頭で思考すること(または経験すること)を大切にしているというようなことを書かれていた。例えばゲームをするときは攻略法が存在していることを知りながらも調べず自分の力でするほうがやりがいがある。そしてそのときの経験はきっと、次のゲームをするときにいつか役に立つ。

 

2013年は考える年、2014年は実践の年、考えるより行動するほうがきっと上のステップなんだろうなと思っていた。けれどやはり、行動することと同じくらい考えることは大切なことだと思い直した。

 

そういえば幼かった頃は知らないことだらけで、なにかするときは直感力を試すことの連続だった。私にとってのこれからの直感力はもっと自分の力で考えて、想像して、の繰り返しから得られるのかもしれない。

 

身体をやわらかくするなら幼少期のうちに、大きくなってからやわらかくするのは難しいという。記憶の仕方は幼い頃と20歳になる頃とは違ってくる、とも聞いたことがある。その境界線はどこにあるんだろう。