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書いては書いては消していた。

タイトルは少し盛った。

昨日は久しぶりに早い時間からもう眠りにつくだけの状態になって、パソコンが置いてある机の前に座っていた。家に帰って家族と夕べの食卓を囲むのも、冷え切っていない浴槽も、久しぶりのことだった。

春休みは問答無用で過ぎ去ろうとしていて、私の「まって」は届かない。

1日の何分の1かを座って過ごし、とりとめもないことを考える時間と日々のことに費やす時間で毎日を紡いでいた生活とは打って変わり、春休みはとにかく思考も身体も動き回っていたように思う。何をし、何を思ったかはまた追い追いお話出来たらと思う。

長いおやすみを終え新しい学期が始まると、久しぶりに鉛筆を持ったから字がうまく書けないという友人がいた。同じように間が空いてしまうとブログを書く感覚がなかなか取り戻せない。

昨日は念願だったいちごビュッフェ(いちごを使ったデザートを心ゆくまで食べられる夢のようなイベント。混雑が予想されるため、開催の1時間半前から整理券を配布するというものだった)に惨敗(1時間半前に会場に着いたのにすでに長蛇の列、整理券も配布終了していた。原宿のパンケーキ屋さんで5時間待ちを言い渡されたよりはるかに悲しかった)し、腹いせに友人とカフェでいちごのパフェを食べたという悔しいエピソードとともに、贅沢について書いてみかけた。

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負け惜しみにかわりないが、食べ放題よりも好きなものを1品選んで食べたほうが贅沢じゃないかという結論に落ち着いた。

贅沢は敵だ」といわれる時代があったし、贅沢という響きはなんだかぎょうぎょうしいような、上品でないような感じがして私はあまり好きではなかった。(ぜい肉だって贅沢な肉と書く)

贅沢とは、必要な限度を超えている物事や様子を指す。人間の生活に置き換えてみると、日常生活から少し形を変えた過ごし方ー例えば旅行、そして高価なものを手に入れることなどが当てはまるだろう。

日常生活でいつも贅沢をするわけにはいかないから、贅沢といつもに挟まれて人は生きる。このメリハリが個人の個性を生み、どこで贅沢するか(贅沢の選択)によってそれぞれのセンスが現れる。

こうして贅沢を分解してみると、「贅沢は素敵だ」と思うようになったのだ。

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だいたいこのような内容だったと思うが、昨日書きかけたときはなんだかしっくりこなくて、途中でパソコンを消してしまったのだ。

今の私は、駅前で友人を待っているところだ。昨日の私と違うところは、締め切りがあるところだ。友人が来る前に、このブログを書きたい。

20歳まであと半年、ということではじめたこのブログだが、私はあと1ヶ月もせずに20歳を迎える。このカウントダウンはこれからも大切にしていきたいから、ここでこうして文章に触れていく時間もこれからはなるべく作りたい。

大学生になってから失われつつあったこの瞬間は今だけ、という自覚が、最近やっと戻ってきたような気がするのだ。