境目期間の過ごしかた

最近、意識を取り戻した。

 

もうじき今年度が終わる。年度末って、年の瀬よりも境目をリアルに感じる。学年が上がる。日本のどこかでは桜が咲き、新潟もつぼみの存在感が強まり季節は変わっていくことを教えてくれる。中学生の頃は、おこづかいがちょっと増えた。そんな出来事ひとつひとつを受け入れていままで何度も越えてきたのだから、きっと私は境目が好きなのかもしれない。

 

あたらしい手帳やノートを目の前にすれば「いっぱい書いていこう」とわくわく意気込むし、「ちゃんと書けるかな」と不安がる。そんな時は境目の終わりにどこからかやって来るすこしばかりのさみしさが、その不安を押しやってくれる。そして新しいときを始める。

 

さて、もうじき今年度が終わる。

 

以前は境目の向こうにむけてなにか宣言するとしたら、現状より良くなることを前提としていた。そして新しいときが始まると、いつだって残念なことに少し前の私が嫌いになる。

 

意識が高い、という言葉がある。ほめ言葉からやがて痛いさまに、そして今ではその言葉が指す範囲がさらに拡大されていったように感じる。

 

境目の向こうにむけてなにか宣言するとしたら、以前より意識を高めることが求められる。小学生の時だって、壁に貼りだされた「新学期のめあて」はいつもまぶしいことが書かれて並んでいた。

 

意識を高めて意気込めば、階段を少し昇れる。歩けば、止まっていた時には存在に気が付かなかった風を感じる。前進する。それが時々苦しくなるのはなぜなんだろう。

 

様々なことに順序があるように、桜にも葉やかたい芽やつぼみの時期があるように、境目の乗り越え方にも順序がある。意識も高める以前に、「取り戻す」必要があるのだなと思った。先に、と走り出す代わりに今に集中すること。

 

3月は暖かい日と寒い日が交互にやってきて、毎年のことなのに面食らう。手すりに頼らず真ん中に立ち、電車にがたごとと揺られているときのような気分になる。それもきちんと走っていた証拠なんだなと思えるようになった。

 

もうじき今年度が終わる。