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ハスビーン、ふてくされた桜とのんべえ

5月の始まりは生まれて初めて訪れた青森県で過ごした。昨年のゴールデンウィークは早起きして、村上行きの白新線に乗り、岩船港から粟島へ向かったのだった。今年は「特急いなほ」に乗り、一瞬にして流れる岩船町駅と少し停まる村上駅を過ぎ、酒田も過ぎ、秋田まで電車を降りることはなかった。

過去の自分より遠くまで独りで行けるようになると、なんだかちょっと成長したように思える。

秋田と青森をむすぶ「特急つがる」から時折、山の木々にまぎれて桜が見えた。咲き残った、という表現が似合う桜だった。まばらな他のつがるの乗客はきっと寝ていた。おそらく誰にも見られることのない桜だったから、ふてくされて咲いているように見えた。

特急いなほ」で1冊、読んだ。


「憂鬱なハスビーン」/朝比奈あすか
文庫本を選ぶ時は1度に2冊購入する癖がある。合計が1000円に近くなるように選ぶのはパズルみたいでなんだか楽しい。少しぶ厚めのミステリに挑戦することに決めたら、残りはさらりと読める長さの小説にしようと思って選んだ1冊だった。

インテリな主人公は「ハスビーン」という言葉を知っているし、自身が「ハスビーン」だった。Has been、(かつては輝いていたかもしれない)もう終わった人。

幼い頃から競争の中に身を置くことを楽しみ、(競争というか成長かもしれない)理想に近づいていった主人公。主人公の夫は現状を楽しみ、また、楽しめる範囲が広い人だった。

成長していくことに幸せを求める人と、現状に幸せを感じる人が夫婦になっていた。夫婦という関係に限らず、この組み合わせは非常に興味深いと感じた。そして、この小説の終わりも。

主人公がハスビーンかどうかは、誰にも判断出来ない。主人公自身が判断すればいいことだからだ。主人公が自分のことを本気でハスビーンだと思わなければ、小説のページが終わってもきっと物語は続くんだろうな。

「つがる」の車窓から見えた桜は季節に反抗することなく、今頃はもう散ってしまったのだろう。あのふてくされた桜が「ハスビーン」だったかも、私にはわからない。

はたちになってしばらくして、ある日ものすごく文章を書きたくなった日があった。年度始の慌ただしさを引きずったまま実現できなかったけれど、今できた。

そういえば以前訪れたピースの又吉が小一時間座っていたという、太宰治が住んだ家の、執筆するときの場所に行って私もちょっと座ってみた。

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ここの案内人によると、文章力がめきめきあがるといううわさだ。もっと早く知りたかった。

自身に会いたい、と言われ家の戸を叩かれれば気前よく出てきて、酒を飲むとちょっと饒舌になって文豪らしい話をしてくれたという太宰。

はたちになってお酒を飲めるようになって、最近になってちょっと重要なことを話した後にぐいっと一口飲みたくなる気持ちがわかってきた。

どうせ同じ一杯を飲むのなら、どこで作られたものだとか、こだわったポイントとか、そういった作り手の心を少しでも知ってから大切に飲みたいなと思う今日この頃である。

またひとつ旅をして、身体を動かしてあちこち歩いてみて、ついでに心もどこかへ行ってみて、人生を楽しむポイントが増えてきたかもしれない。