百合江と紗希

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 尋ねられたことはまだないけど、もし「大学時代に読んだ本の中で一番心に残った一冊は?」と尋ねられたら、私は「桜木紫乃さんの『ラブレス』かな」と答える。2016年のちょうど今頃読んで、それからというものどうしても、『ラブレス』を包む空気が私のそばを離れていってくれないのだ。どうせならもっと明るくハッピーな物語がそうなってくれればいいのに、と何回も思った。でも仕方ない。これが私の趣味なんだろうな。


 『ラブレス』は、北海道の標茶の開拓小屋で生まれ育った百合江の一生を描いた物語。里実という美しい妹、その子供である小夜子、そして百合江の娘である理恵による現代の記述と、百合江の若い過去の記述が交差して物語は進む。

 

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 『ラブレス』については、このブログでも今までに何回か書いてきた。初めて読んだばかりの時のほうがみずみずしい感想が書けていると思う。それでも、今年に入ってもう一度読み直してみて新しい発見もあった。


 私はかつて、運命を背負ってたくましく生きる百合江には実はあまり共感できなかった。ただ、すごい人だとは思っていた。かつて一座の仲間として旅を共にした宗太郎はどんな風が吹いてもしなやかに吹かれて生きる柳のような男だった(新潟出身らしき記述も)。私はどちらかというと初めて読んだとき、宗太郎のしなやかさや現実的に堅実な生活を営む里実に共感していた。でも、『ラブレス』を読んでから、しばらくずっとある目標に向かって過ごしているうちに、一ヶ月先の自分の姿が想像できない状況が当たり前になってきた。それでも、今日をしっかり歩こう。失敗から学べばいい。そんな風に思えるようになって、そんな風に思う時はいつもうっすら百合江の後ろ姿が見える気がした。読書体験が人生の糧になるとはこういうことか、としみじみ感動に浸ることもあった。何度読み返してみても百合江が沢田研二の「時の過ぎゆくままに」をキャバレーで歌うシーンには震えてしまうし、最後の4ページを視界をぼやけさせずにことはできない。


 
 さて、そんな物語を紡ぐ桜木紫乃さんの新たな著書を手にした。『それを愛とは呼ばず』である。社長である妻の事故を機に、会社から追われてしまう男・亮介。いっぽう北海道から夢を追って上京したものの、売れることができないまま旬を過ぎてしまった女・紗希。人生の淵に立った男女を主人公に進む物語だ。


 北海道に生まれ、凍えそうな大地で強く生きる人間を描いてきた桜木紫乃さんだが、『それを愛とは呼ばず』の舞台の一つになんと新潟がある。亮介と妻の章子が住むマンションは信濃川沿いの海が見えるマンション。会社では主に古町で事業を手掛ける。おなじみの町並みの記述や実在するレストラン名に目を見張ってしまう。今までに読んできた桜木紫乃作品で一番、私にとっては情景がリアルに映る。


 モデルやタレントを細々と続けていた女・白川紗希は、まじめで堅実な人だった。

 

冬場の水着撮影でも風邪をひかなかったのは、己に課した生活習慣を守り続けていたからだ。

どんな環境に置かれても、人はその場の色に染まったほうが楽に生きられる。紗希にはそうした器用さがほとんど感じられなかった。

  紗希の自己管理能力の高さには及ばないけれど、私も切り札を取っておいてうまく立ち回れるような器用さがあるほうではない。静かで清潔な部屋で、紗希の希望がしぼんでいく様子が痛々しかった。


 東京、新潟、北海道。それぞれの場所で、物語が進むにつれて少しずつ、亮介と紗希を取り巻く環境が変化していく。『ラブレス』のような、確実に目に見える愛に満ちた作品ではない。でも、結末の様子を、タイトルの通り人びとは「それを愛とは呼ばない」。じゃあ、何と呼ぶんだろう。そんな問いはともかく、やっぱりこの作品は新潟が舞台になっていたことが嬉しかったし、亮介の「いざわコーポレーション」での事業が実際に新潟で広がればいいなとも思った。都会のエッセンスを取り入れながら、Uターンの若者の仕事場を提供する。思わず実現している様子を街中で思い浮かべてしまうのだ。


 新潟の雪と、北海道の雪は違うという。新潟の雪は水気を含んでべたべたとしている。最寄りのコンビニからの帰り道、傘をささずに雪に降られながら歩いてくると、簡単には振り切れない雪の粒がコートを湿らせる。北海道の雪は体験したことがない。でも、この前東北に行った時、そこでの雪がさらさらしていることに気が付いた。足で踏むと片栗粉みたいだったし、触ると砂みたいに簡単に手から逃れてくれる。もっと寒いところに行くと、もっとさらさらしているのかな。桜木紫乃さんは、新潟独特の気候や県民性をも書いていた。


 『それを愛とは呼ばず』の紗希には共感できないでいたほうが幸せだと思う。でも、『ラブレス』の百合江の背中を見ながら生活できるようになったことは成長だと思う。桜木紫乃さんが描くふたりの女性を見つめていたら、1月がいつの間にか終わりを迎えていた。