こわいものリスト

書くことには引力があるという。

たしかに年のはじめに手帳に書いた夢リストは、今見てもわくわくするようなことならいつの間にか叶ってる。

1日の終わりによかったことを書けば小さな幸せに気づくことができるし、悩みだって書き出して言葉にしてしまえばもやもやの糸がほどける。

夢リスト、おかいものリスト、ほしいものリスト。ふと「こわいものリスト」を作りたくなる。

綾瀬まる著「あのひとは蜘蛛を潰せない」

あのひとは蜘蛛を潰せない (新潮文庫)

あのひとは蜘蛛を潰せない (新潮文庫)




この作品は、体だけ歪に成人した我々のための手引き書である
文庫本の帯に椎名林檎さんの写真とともに、推薦文が書いてあったのに惹かれて手に取った。

28歳、実家暮らし。母の「ちゃんとしなさい」から、抜け出せない。
ずっと穏やかに暮らしてきた28歳の梨枝が、勤務先のアルバイト大学生・三葉と恋に落ちた。初めて自分で買ったカーテン、彼と食べるささやかな晩ごはん。なのに思いはすぐに溢れ、一人暮らしの小さな部屋をむしばんでいく。ひとりぼっちを抱えた人々の揺れ動きを繊細に描きだし、ひとすじの光を見せてくれる長編小説。

この作品を読んでいると、主人公の梨枝が三葉にときどきいだく気持ち「ひやり」がたびたび私のもとにもやってくる。私だって「20歳、実家暮らし。」まだ生活の主軸を労働にあてていないだけで梨枝と共通する暮らしぶりをしていた。
自分でカーテンを買ってみたかった。生クリームがたっぷりのった菓子パンを朝ごはんにしてみたかった。
ときどき妙にひとりで暮らしたくなるから、この語尾の過去形を「みたい」にすれば私と一緒の気持ちになった。

いつかの私がここに書かれていたらどうしよう、と思う。

梨枝は母のものさしで「ちゃんとした」生活を送ってきた。私はといえば誰かのものさしによらなくても、自分でもやっかいだと思うようなルールを作ってしまうことがある。

久しぶりに会った高校の先生に「休肝日を持っている」と言ったら「まだ若いのに」と笑われてしまった。小さい頃はなんとなく悪い子に見られたくなくて、悪魔の絵を描かないようにした。(なんでだったんだろう)マイペースというのとまた違うのかもしれないけど、私はときどき自分がつくったルールに苦しむときがある。

三葉との恋をきっかけに家を出た梨枝の気持ちはそれはもう晴れやかなものだった。

私の中に、生まれつき人に比べて半分しかない臓器があって、冷えて縮こまったそのかたまりに温かく脈打つ残りのパーツがようやくはめ込まれたような、そんな充足感だった。

母から「逃げる」ことで、三葉と想い合って、手に入れた充足感はけしてゴールではないということを梨枝はあとで実感する。三葉との暮らしにもその断片が見えてくる。
なにもしてくれなくても好きになったのに、そばにいることに慣れたら、たて穴を埋めてくれないことが苦しくなった。

「ちゃんと」って、なんだろう。

「みっともなくないように」。「みっともない」と決めるのはまわりの人だ。
「こわい目を見ないために」?

「こわいものリスト」の話に戻ろう。
私が実際にこわいと思うものをいくつか思い浮かべてみると、病気や災害でないものは「まわり」がなければこわくないものたちだった。

幸せや成功はまわりにも転がっているから、それをいちいち指標にしていてはどうしようもない。「幸せかどうかを決めるのは自分だ」とはよく言ったものだ。

それに比べてみっともないかどうかというのは、「まわりがどう思うか」ということもそうだしマナーや常識の問題もある。(それももはや「まわり」か。)

休肝日のこともそうかもしれないけど、ときどき私は自分を律しすぎてしまってるのではないかという気分になる。そのために器の小さな、つまらない人になっていやしないか心配になる。

「ちゃんと」ってなんだろう。
思えば思うほど謎だ。

家を出たばかりの梨枝について「家のこと、生活をさのことについて、私の手足は胎児のように柔らかい」と表現されていた。

繰り返し楽器を奏でていると指先がかたくなる。地面を歩けば足の裏に土踏まずができるし、町中を歩けば髪がたばこくさくなる。ひとの体は何かに触れるたび、どこかの環境に置かれるたび、少なからずなにかを吸収しようとする。それもわりと自然にだ。

私の「ちゃんと」もそんな感じでいいのかもしれない。

梨枝だけじゃなくていろんな人がきっと幼いころから「ちゃんとしなさい」と言われてきた。「わかってる」って返事をしても、いまいちピンとこなかった「ちゃんと」。いろんな人が私と同じようにわからないものなのかもしれない。

そんなことを思うと、こわいものリストから文字がすうっと溶けてゆく。