孤独な夜のココア

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三十路を越したハイ・ミスはみな、すらりと粋で、ちょっとばかし皮肉で、適度に意地わるで、神秘的で、美しかった。

 

初夏に小旅行で訪れた本屋で、「ジャケ買いしたい本特集」をやっていた。そこに置いてあったのが

 

田辺聖子著『孤独な夜のココア』

 

孤独な夜のココア、と聞いてなにを思い浮かべるだろうか。なにが孤独なのか。どんな味がするのか。私は眠れないつめたい夜、家族が寝静まる気配を感じながらマシュマロを浮かべてこっそり飲むあたたかいココアを思い浮かべた。

 

ちょっと季節的には早いかもしれないけれど、涼しくなってきた今が読みどころなのだ、この作品は。

 

あとがきに綿矢りささんは書く。

頼れる、守ってくれる人がいい、自分よりデキる男の人がいい。そうでなく、むしろ男の人の幼い、世間の色に染まっていない、自分で自分を飼い慣らせていない部分を愛する、でも決してだめな男が好きというわけではなく、あくまで微笑ましい部分を愛している。

 

そう、『孤独な夜のココア』で描かれる女性たち(短編集なのだ)は、ちょっと強い人たち。

 

カッとなって怒れた日は、悲しみを知らない日だったのだ。

 

そういう気持は、しぜんに大倉サンに伝わってゆくのかもしれない。人間のきもちは、さざ波の波紋のようなものだから。

 

私は密かに思っている。ヌケヌケとした面をもつ恋は、少くとも二十五歳、お肌の曲がり角の女にはもう似つかわしくない。二十五の女の恋は、もっとしゃれて、すっきりした恋をするべきである。

 

もはや、あの、雨の降ってた残業の夜の、たのしいこだわりのないいい雰囲気は、二度と生まれないという、不安な予感がする。恋というものは、生まれる前がいちばんすばらしいのかもしれない。

 

短編集には表題作がつきものだけど、この短編集の中には『孤独な夜のココア』という短編は見つからなかった。あとがきの綿矢りささんは、子どもの頃から田辺聖子さんの作品に親しんできたという。ああ、だから、若い齢であんなに老成した作品がかけるのかもと納得させられた。

 

年齢的にはいつか通る道で、『孤独な夜のココア』に描かれる女性たちは私を待っている。彼女たちのようにすてきに歳を重ねていけるだろうか。

 

「やさしいことのかずかずを エイプリルフウルの宵なれば 嘘もまことも薄情も けさはわすれてあるべけれ」と、夢二は唄っている。でもいまはもう翌朝の午前一時、キヨちゃんのやさしさはうそではないかもしれない。

 

そうしてまた、思う。

年を重ねた人の恋も、晶子のひなげし(コクリコ)の恋のように、いちずで烈しいものかもしれないって。

 

ときどき夢二や与謝野晶子の言葉も生かしつつ、ちょっぴり昭和のにおいを残した語り口で進められる女の人たちの物語。ぜひこの秋に、おいしいココアと一緒に味わってみてはどうだろうか。