正直に語る100の講義

夏休み中というのに、

大学に毎日のように足を運んでいる。

卒業研究が佳境だからねっ。

おまけに私は講義まで受けている様子。

 

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森博嗣著『正直に語る100の講義』

 

わりと自然に書けたのは、だいたいが飾らない、盛らない、驕らない正直さのためでさないか、と自分でも感じている。(P.226 あとがきより)

 

「100の講義」シリーズ第5作にして完結作。

このシリーズは、

見開き1ページのエッセイが100

収録されているというもの。

森さんはまず100このタイトルを考えて

そこから一気にエッセイを書いていくという。

「正直でいる、無理をしない」という

ポリシーがあるから書き終えることが

出来たのだと結んでいる。

 

「クリームシリーズ」のエッセイから入って

森博嗣さんのミステリー小説も

シリーズもの・単発ものに関わらず

数年で何冊か読んできたけれど、

まだまだそれは全著作のほんの一部だ。

こんなに多作なのはやはり森さんの

正直さが根底にあるからなのだと思う。

 

他の人の小説を読んだあと、

エッセイを読んだあと、

気持ちを引き締めたいときに私は

森さんのエッセイを手に取る。

『正直に語る100の講義』はちょうど

文庫本が発売されたばかりだった。

 

シリーズものは、1冊目で作品側が

読み続ける人を選別するという。

人に選ばれて読まれていると

思っていた本だけど、

実は本に選ばれているという見方が新しい。

そして私は「100の講義シリーズ」を

完結編まで読んでしまったわけだ。

 

森さんいわくエッセイでは

「厳しいことを言っている」そうで、

確かに何気ない普段の自分の思考や

行動を振り返らながら読むと恥ずかしくなる。

「あー、もう少し賢くなりたい」と思う。

森さんのエッセイは、優しくて厳しい。

 

 

 

60/100 「しかない」が、

強調に用いられているようだ。(P.140)

では、強調の表現(とても、非常に、

すごい、死ぬほど、めちゃくちゃなど)が

どんどん登場してきたことによって

言葉のデフレが起こっていると指摘する。

ていねいなメールを作りたいとき

感謝の気持ちをどうにかして表したいとき

私が感じていた表現に関するモヤモヤは

「言葉のデフレ」と呼ぶと

しっくりくるのか、と驚く。

 

 

92/100 栞、栞紐と

いうものの存在が不思議。

ページを覚えれば

良いだけなのに。(P.209)

では、便利なものが出てくると

人は考えなくなるということを、本に

ついている栞を例に挙げて述べられていた。

栞を使わなくても、ページを覚えておけば

記憶力の老化に対抗できる。

「忘れてしまった時の罰ゲームは

ページを探す時間だ」と書いてあった。

 

 

何の気なしによく使ってしまう言葉の危うさ。

受けた言葉の裏の裏を読んで疲れること。

そういったことを「100の講義」では

ひとつひとつ気が付いて、立ち止まれる。

読み終えるとニュートラルな気持ちになれる。

 

 

 

ちなみに、森さんは谷崎潤一郎の作品の

ほとんどを読んだと本書にあった。

私はそれを今まで知らなかったし、

ちょうどカバンにこのエッセイと

谷崎潤一郎の短編集を入れて持ち歩いていた。

本を持ち歩いていると、作品に出てきた

地名を他のところで目にしたり

目で追っていた固有名詞を隣のテーブルで

誰かが会話に出してきたりする。

読書はそういう偶然もおもしろいのだ。