新しい東京の記憶を

14歳の頃からの夢が叶った。

ずっとずっと会いたかった友人に会えた。

 

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14歳の頃…さかのぼること6年半前。中学2年生の終わりに近づいた頃、私はあるブログを作った。そのブログサイトはアメブロ以上に、ブログを持つ人同士が交流できるものだった。

 

私が中学生の頃は、ホームページや前略プロフ、クルーズブログを見る限りネットにいる同い年は「ギャル」が多かった。当時の私より少し上の歳になると、当時流行っていた「森ガール」が多くなった。そんな当時のブログサイトには渋谷系と原宿系が混在していてにぎやかだった。

 

どちらかというと「ギャル」より「森ガール」に近かった14歳の私はのんびりと日々のことを綴った。部屋にあるお気に入りのもののこと、母と食べに行ったおいしいランチのこと…そんな私にコメントで話しかけてくる人はやっぱり少し年上の「森ガール」っぽい人々だった。

 

そんな中で、同い年かつ雰囲気も似ているHちゃんという人とコメントを送りあうようになった。隣の県に住んでいる子だった。

 

今でこそfacebookTwitterの流行でネットに顔を出したり、名前を公開したり、ネットで出会った人と気軽に面会することが一般的になってきた。でも、私がHちゃんと出会った頃はまだ、そうじゃなかった。当時読んでいた雑誌の「本当にあった怖い話」の読者投稿欄に、「ネットで出会った同じ年の女の子に会ったらオジサンだった!」なんてのもあった。

 

そのブログをやっていた期間は短かったけれど、Hちゃんとはメールをするようになった。なんと、何かの拍子でHちゃんは私が幼稚園で仲良くしていた子(小学生になってから隣県へ引っ越した)の知り合いであることが分かった。はじめて出来た「ネットで知り合った友達」が、実は友達の友達だったことが分かって面白かった。

 

年賀状も交換するようになって、住所が必要になったのでその時はじめて本名も知った。届いた年賀状は心のこもったメッセージと美しい絵で溢れていてとても嬉しかったことを覚えてる。

 

友達になった頃から、「いつか会えたらいいね!」と言っていた。Hちゃんの住むところに行くには1日にバスが2往復出ているし、日帰りで会えない距離でもなかった。新潟で会うならどこでお昼を食べようかなとか、あのお店は一緒に回りたいななんて想像した。でも、お互い高校生になり、予定が合わないまま高校も卒業してしまった。

 

ブログやメールの交流のかわりに、お互いしか入れない鍵付きのホームページを作って交換日記みたいにしていた時期があった。今こうやって文章中心のブログを書いているのも、Hちゃんに読んでもらうためにいつも文章を書いていたからやりやすいのかもしれない。今見返したらしょうもないことばかりだけど、その時本気で悩んでいたことと、学校の友達に相談できないことも、密かに嬉しかったこともなんでも書いていた。Hちゃんに特に何か言ってほしいわけでもなかった。ただ、見守っていてくれる存在がうれしかった。

 

Hちゃんは現在、東京のデザイン系の専門学校に通っている。東京は私にとって、隣県に行くよりも近い距離に感じた。春からの進路を打ち明けてくれたのは1年前の今頃で、ずっと言ってきた「いつか会おうね」が近いうちに叶いそうだと思った。

 

そしてこの夏、私がインターンで1週間東京に滞在することになった。余裕を持って前泊をすることに決めてよかった。タイミングよく、私が東京に到着する日にHちゃんも予定があいていたのだ。いよいよ夢がひとつ叶うんだ、としみじみした。

 

話は戻るけれど高校の時、国語を教えてくれた先生が面白かった。芸人的な面白さというより、興味深い人だった。その先生は、詳しいことは忘れたけれど、10年くらいネットで文章を書いていて、ひとり読者がいたらしかった。1度だけその人と会ったのだと授業中に話してくれた。私は、先生が自分とまったく似たようなことをしていたのでドッキリした。そしてその時もやっぱり、いつかHちゃんに会ってみたいと思っていた。

 

私はHちゃんにブログで出会った2010年の夏、母と銀座に行った。あれが家族と一緒に行った最後の東京の記憶だ。美味しいオムライスを食べて、文房具店を回った。「とらやのようかん」も食べた。そして大学生になって本屋で手に取った文庫『銀座の喫茶店ものがたり』を読んで、また銀座に行きたいと思っていた。

 

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Hちゃんは絵を描いている。私は銀座にまた行きたい。最近昔ながらの喫茶店が好きだし。きっと、Hちゃんも昔ながらの喫茶店が好きだと思った。私は思い切って、銀座で待ち合わせようと誘った。文房具店を回って、喫茶店に寄ろうって。

 

高速バスが東京駅に着くので、有楽町のほうが行きやすいよとHちゃんが教えてくれたので、「有楽町で逢いましょう」になった。

 

ぼうっときっぷ売り場の路線図を眺めていたら、長めのボブの髪型で目がくりっとしている、赤い口紅のすてきな人がこっちへ歩いてきた。「ありすちゃんだよね?!」とその人が言った。

 

「わぁ」とか「おぉ」とか「えぇ」、何と言ったのか忘れてしまったけど、とても嬉しかった。「はじめましてだね?」と不思議な感じになった。6年半も友達をしてきて、初めて会うなんていう人は今までの私の人生ではじめてのことだったから。

 

雨が降っていた。東京駅に着いた頃からやけに緊張していたので、荷物と一緒に折りたたみ傘を預けてきてしまっていた。ファミリーマートで買った傘は、強くなった雨足にも対応してくれた。

 

伊東屋を探した。6年前の夏の記憶より、伊東屋はきれいになっていた。初めて会う人と、50万円もする万年筆を見た。150円だけど伊東屋オリジナルの美しいデザインで、書きやすそうなボールペンも見た。

 

文房具店を回ると言ったのに、12階もある伊東屋に2、3時間もいた。こりゃもはや銀ブラじゃない。高層な文房具店から見る景色はすごかった。私は今いる階より高いビルたちを眺めていた。Hちゃんは持ってきていた一眼レフで、この景色を撮りたいと言った。

 

私が見ているところと同じ方向にカメラを向けるとばかり思っていたのに、彼女は階下の手前に見えるビルの屋上を撮った。忘れ去られたピンクや黄緑のタオルが、屋上で雨ざらしになっているところも彼女はくまなく見ていた。

 

ミランダという名前のついている種類のきらきらした紙や、めずらしい家具も見た。伊東屋の11階ではなんと、フリルレタスを栽培中だった。私はおみやげとポストカードを、Hちゃんは一目惚れしたらしいピンクのノートブックとポストカードを買った。

 

そのあと、私が持ってきていた文庫『銀座の喫茶店ものがたり』に載っている喫茶店について書いてある章の名前の中から直感で、Hちゃんに行き先を選んでもらった。

 

「銀座トリコロール、良さそうじゃない?章の名前、常連客という財産だって!!」私も賛成だった。幸い、伊東屋を出て少し歩いたところから一番近いところに銀座トリコロールはあるようだった。

 

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(Hちゃん撮影)

 

そうそう、この感じがすてきだ。

回転扉を1人ずつくぐって、二階の禁煙席に腰を落ち着けた。二階の壁にある暖炉の前に、年季の入った『銀座の喫茶店ものがたり』の単行本が飾ってあって思わずHちゃんと顔を見合わせた。

 

外は雨だけれど、れんががあしらわれた内装と洋風の椅子とテーブル、カーテンのついた天窓……銀座トリコロールは「どうぞゆっくりしていってね」と私たちをあたたかく歓迎してくれた。

 

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せっかくなのでコーヒーとケーキのセットをふたりで注文した。コーヒーが注がれるとすぐさまひとくち飲む。実はブラックコーヒーが飲めないの、といつ言おうか迷うくらい、飲めてしまうコーヒーだった。おいしかったのだ。

 

チョコレートケーキはスポンジよりガナッシュの層が分厚くて、パリパリしたナッツのなにかとチョコレートでコーティングされた素晴らしいおやつだった。

 

のんびりしたブログも書いたし、近況報告やあいさつにメールも書いた。交換日記的な鍵付きのホームページ(私たちはたしかノートと読んでいた)も書いた。髪型が変わったり、学校が変わったり、好きな人が変わったり、考え方が変わったりした。そういう6年間を、電波を通して見守り合ってきたんだなぁとまたしみじみした。多分Hちゃんは、ある部分では私の6年間を一番知っている存在かもしれなかった。そりゃ思い出したくないような出来事もあったけど、Hちゃんに会ってまるっと6年間を肯定したくなった。

 

国語の先生の話をした。

「え、先生は1回しかその人に会わなかったの?」「そうみたいだよ……」「そりゃなんか悲しいね。私たちはまた会おうね」

 

あんまり過去の話をしている時間はない。今のこと、今好きなこと、おすすめの映画、これからのこと、どんどん強くなる雨足を横目に私たちは語り合っていた。

 

Hちゃんは好きなものがあって、それはとてもセンスがよくて、日々を楽しむすてきな女の子だった。しずかに話すタイプだった。今は何をやりたいか、やるべきかがちゃんとわかっている感じがした。

 

新宿に電車がついて、私が先に降りた。はじかれるように降りた。

 

改めて、彼女と友達になれてよかったと思った。またいつか、会いたい。それまでに私も、好きなことをもっともっとたくさん見つけたい。

意外じゃなかったサードプレイス

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髪を35cm切ってから2ヶ月半が経って、パーマもとれてきたこともあってだいぶ髪がのびてきた。

 

今まで髪がとっても長くて根元からじゃないパーマかストレートで、そんなに高頻度で髪をいじりにいく必要もなかったので、短いときはどんな頻度で美容室に行けばいいのか忘れてしまった。友人に相談して2ヶ月半くらいがちょうどいいんじゃないということだった。

 

 髪の毛が大阪に渡りました - 謎の国のありす

 

このときお世話になった美容室にて…

 

シャンプーするところと髪を切ったり巻いたり染めたりするところが離れていて、私はシャンプーするところが星空みたいになっているのが気に入っている。

 

髪を切ったり巻いたり染めたりするところは過去に訪れた海外で聴いた洋楽がいつもすてきに流れているし、シャンプーするところは星空にぴったりなインスト曲が流れている。

 

夏になって自覚していたけれど、髪がけっこう乾燥していたようで、トリートメントもしてもらうことにした。

 

星空の下、匂いも温度もあたたかいスチームを髪にあてられていると、もうそこで流れているリラックスする音楽のことしか考えられない。

 

でも、私は横になるとよくおなかが鳴るので、シャンプーしてもらってる時も数えはじめてから20回はおなかが鳴って恥ずかしかった。美容師さんはシャンプーに集中されていたから気付かれていないといいな。

 

ここの美容室は大学の友人たちの間でもとても人気で、美容師さんに「先週あの子がきたよ」「月曜日はね、あの子が来てくれた」と教えてもらった。「あの子」や「あの子」が美容室のイスに座っている時も、きっと同じ会話がされているんだろうな。

 

みんな何を考えながら、このイスに座ったり、シャンプーをしてもらったりするんだろうと興味深い。

 

少し前まではなんだか美容師さんに申し訳なくて、目の前にある雑誌を見ないで自分の髪が切られていくところをまじまじと眺めていたけれど、そっちのほうが申し訳ないかもしれないと思って最近は雑誌を読んでいる。

 

私がかわいいと思っていた夏の流行の服装やメイクについて特集してあった。これまでにないくらいまじまじと眺めていた気がする。おしゃれは楽しいんだな、雑誌を作る人にとっても、雑誌に載る人にとっても、そしてこうして眺めている人にとっても。この美容室に来ているほかの友人もみんなそれぞれのおしゃれを楽しんでいてかっこいいと思っている。美容師さんとそんな話をする。

 

流れている音楽について考えたり、目の前にある文字や写真を追いかけていると、なんかに似ている感覚だと思った。そうだ、カフェにいるときだ。

 

カフェはよく、「サードプレイス」と呼ばれる。美容室も、友人たちも通ってるしいろいろな話をしたり考えごとをしたりしながらリラックスできる。美容室もサードプレイスみたいだと思った。

 

自宅(ファースト)でも、仕事場(セカンド)でもない、日々の生活を充実させてくれる場所。 この認識で合ってたよね?と確認したくてグーグルで検索してみた。

 

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通勤時間が長い人にとって、サードプレイスはなくてはならない場所にある傾向が強いこともわかった。ああたしかにそうかもしれない。

 

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そしてWikipediaには、床屋がサードプレイスの例となっていることも載っていた。これにはびっくりした。私はさっきまで美容室がサードプレイスのようだという認識は意外な発見だと思っていたからだ。

 

この、Wikipediaのページはなかなかおもしろく、サードプレイスについての定義や特徴についても考察されている。

 

無料、あるいは安い/食事や飲料が提供される/アクセスがしやすい/習慣的に集まる/フレンドリーで心地よい/古い友人も新しい友人も見つかる。

 

ああたしかに、美容室もそうかもしれない。そしてやっぱりカフェというのは最強にサードプレイスなんだと改めて思った。

 

フランスのカフェでは、日曜に、人がわらわらと集まり、コーヒー1杯で何時間も居座って、様々なことについて議論するらしいということを講義で習った。もはや日曜の仕事みたいだと思った。サードプレイスが日曜にはセカンドに昇格するのか。

 

こんなことを考えたりしている間に、髪は栄養をとり、少し短くされ、くるくるになった。これでやっと安心して夏が迎えられるような気がする。

うちは焼肉屋さん

壁一面にネオンがかがやく。

ネオンといってもひと昔前な感じの、私の好きな感じの、文字のかたちに細く色のついた発行する線が引っ張ってあるああいうタイプのだ。

 

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そうそう、ちょうどこんな。

その壁にはスナックの名前らしきものがたくさん書いてある。「ゆうこ」とか、「かえで」みたいなママの名前が花や星なんかの装飾に囲まれて(それもネオンの素材)、画一的にひしめき合う。スナックの看板ってビルの角から白いプラスチックの板が「にゅっ」と突き出しているから、その壁はあんまりスナックらしくないでしょ。

 

その壁をもつ家の1階に私たち一家は住んでいる。高架な線路のすぐ近くだ。ネオンだらけの看板は、線路を向いている。夜になって電車から見たらきれいな壁の景色なんだろうなと予想する。なぜか、いつも見るのを忘れてしまうのだ。

 

私の家は焼肉屋さんをやっている。

食べ放題のメニューはないけれど、バースデープレートもやるしホールのケーキだって用意する。ケーキは母が作る。その日の予約と、出そうなケーキの数を予測して用意する。

 

今日はどういうわけか、ケーキがひとつも出なかった。まあ、2個しか仕込んでいなかったのだけれど、ホールのケーキを用意してと頼んできたお客さまが来なかったのだ。取っとくと悪くなるので反射的にケーキをゴミ箱に捨てたけど、なんか母にごめんって思った。

 

私は夕方から出かける用事があった。まだ壁のネオンが光ださない微妙な時間だった。

 

引き戸をあけて外に出るとき、ちらっと少し昔の残像が目に浮かんだ。

 

新潟だった。生まれ育った家に住んでいた。ひどい風と雨で、近所の小学校の入り口を照らす明かりもすっかりつかなくなっていた。2階の教務室の窓ガラスは悪天候の影響で割れていた。ビニールシートで覆った壁もなんだか頼りなかった。とてもすめなくなったのだ。

 

そう、この焼肉屋さんの家は東京にある。あんまりきれいな、洗練されたところではないと思う。駅ビルだってそんなに新しくない。上の階に子ども向けのゲーセンと、さびれた映画館と、ダイソーがあった。私はそこに用事があった。

 

残像が終わって、引き戸から外に出ると、大学の友達が店先で肉を焼いていた。お祭りの屋台みたいなちょっとした感じで、小さい入れ物に1人前ずつの野菜などのもやしと豚肉が冷やしておいてあった。1人前は300円だった。「帰ってきたら買うから待っててね」と言い残して駅に行こうとしたら、自分が持ってきたカバンの中身が急に気になった。

 

私は荷物を重くしがちなので(主に本で)、持っていた谷川俊太郎の詩集を肉を焼いている友達に託した。「ごめん!また本を入れ過ぎたよ」

 

駅ビルの上の階でおじと待ち合わせをした。今日はショーのイベントをやるらしい。私はそれを手伝うのだった。なんのショーだか把握してなかった。それなのに本番近づいてきて、私は不安と緊張で突然「暑い」と感じた。

 

そこはただの生まれ育った家にあるベッドの上で、私は布団にくるまれて少し汗をかいていた。目を開けると今まで私が見ていたものは全部、夢だったことに気付いた。

 

友達が焼いていた豚肉が美味しそうで、少しお腹が空いていることにも気付いた。

21歳の蒼い時

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私は数十年前の歌謡曲が好きで、
ブログを書きながらでもバスの中でも
いつでもよく聴いている。
謡曲には根強いファンが多いからか
最新の流行曲を扱うよりも高頻度で
テレビで歌謡曲が特集されてるのを目にする。

なんとなくつけていた歌謡曲の番組で
「モモエちゃん」が映っていた。
顔の右下に当時の年齢(じゅう何歳)。
画面の下中央には年齢にそぐわないような
挑発的な歌詞がのっている。
その歌詞を「モモエちゃん」は
涼しい顔で力強くなぞる。
とても美しいけれど、今はどうしてるの…?
と思ってネットで調べてみると、
結婚を機に歌手を引退したと書いてあった。
謎深い歌手だなあと思っていた。

お気に入りの本屋さんで新しく読む
文庫本を物色していたら、著者のところに
山口百恵」とある本を見つけた。
『蒼い時』…どうやら自叙伝か。
「モモエちゃん」のことが知りたくて、
彼女が紡ぐ言葉に触れたくて購入した。

驚いたことに、山口百恵さんが
『蒼い時』を書いたのは21歳のとき。
今の私と同い年だった!!
結婚を機に、歌手を引退したとき。
それが21歳のときだったとは。

山口さんが当時の「かわいこちゃんブーム」とは違う路線で歌手活動をやったわけ、「〜らしくない」で批評されていたときの気持ち、どんな思いでステージを作ったか、歌を歌ったか、化粧をしたか。みんな彼女の言葉で書いてあった。勝手にあることないことを週刊誌に書かれて裁判を起こしたというとき、その一連の流れやどんな心持ちだったかということも書いてあった。

そして「彼」のことも…とくに、山口さんの旦那さんとなった三浦友和さんとのこともたくさん書いてあった。どこが恋のはじまりだったのか、どうやってお互いの気持ちを知ったのか。若い女性の書いたものだし、結婚した頃の文章だったこともあるけれど、山口さんは「彼」にはとくに、歌手活動や人生の分岐点を大いに支えてもらっていたことが伝わってきた。

複雑な生い立ちを経験し、歌手としてほかの女の子とは違う青春時代を過ごしてきた山口さん。ひねくれたりせず、威張りもせず、謙虚に自分の軸に流されないように生きてきた彼女の人間性がかっこよかった。

家庭は、女がごくさり気なく、それでいて自分の世界をはっきりと確立することのできる唯一の場所なのではないだろうか。春は春らしく、夏は夏らしく旬のもので四季折々に、テーブルを飾る。家庭を守る人間として、いつも周りの人たちを安心させられる場を作る。

山口さんが芸能界を引退すると発表したとき、さまざまな反応があった。ずっと、自立した、クールな人に見られていた。「あなたのおかげで、女性の地位は十年前に逆戻りしちゃったのよ」「もったいない」「あなたも、所詮はただの女にすぎなかったのですね」こんなことを手紙で送ってくるファンもいた。それでも潔く、そして愛する人の生活を支えようと自分から望んで決断したのが山口さんだった。

化粧というものは、女にとって戦場に向かう男たちの鎧のように意味があるのかもしれない。だから、私は戦う場所ではなく、心をゆだねる愛する人に対してくらいは、鎧を脱いで自分らしく接してみたいと思うのである。

出生、性、裁判、結婚、引退、と章が続いたあとは、「随想」の章になる。「随想」で山口さんは自分の身の回りのこと、経験してきたことをランダムに語ってみせる。

女の人がみんなこんな考え方ではないと思うけれど、こういう人もいるんだよということ、歌手をする人がみんなこんなふうではないけれど、こんな人がいたっていいわよねと、山口さんはさり気なく耳打ちしてくるようだ。この本を読んでいるとそう伝わってくる。


「今、モモエちゃんの本を読んでるんだ」と母に言ったら、「なんだっけ…たしか『蒼い時』だよね」と返ってきた。本が出た当時、すごく売れたらしい。たくさんの人に読まれてきた本なんだな。

21歳のモモエちゃん、かっこよすぎます。

蒼い時 文庫編集部 (集英社文庫 126-A)

蒼い時 文庫編集部 (集英社文庫 126-A)


昨日の月はまっすぐだった

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毎日を過ごしていてふと、なんともないことがらについていったん立ち止まってみてしまう。それは誰かの言葉だったり、その時見えた景色だったりする。言葉にも景色にも深い意味はないけれど、あるとき突然それらが生まれたときにハッと目や耳をとめて、その後も時々ふと思い出す。

他にも覚えておかなければならないことはたくさんあるのに、ついつい時々そういうなんともないことを頭のなかに積んでしまう。子どものころの原風景に近いイメージを持ってもらえたらいい。

共通しているのは、なんともないことなのにそれを記憶しようと頭が勝手に準備をはじめているのか、「あぁこの瞬間はきっと忘れないんだろうな」とすでにどこかで思ってしまうこと。とめられない。エビングハウス忘却曲線のようにその後も何度も思い出すから可笑しい。そしてそういう記憶たちは、カメラロールにも日記にも残っていない。

今年ももう半分過ぎたけれど、すでに忘れられない本がある。2月の頭に読んでいた桜木紫乃さんの書いた『ラブレス』だ。



桜木紫乃さんの『ラブレス』と『誰もいない夜に咲く』の感想)

『ラブレス』を読んでいるときもすでに、「あぁきっとこの本のことは忘れないんだろうな」と思っていた。そして半年近く経って、コンビニの小さな文庫の棚に桜木紫乃さんの小説が置いてあるのを発見した。

『蛇行する月』か、新しいのが出たんだ……。

『蛇行する月』は釧路の湿原に囲まれた高校時代を過ごした同じ部活だった女性5人と、その人たちを取り巻く人たちの短編物語で、描かれる時代は1984年から2009年。舞台は北海道と東京だ。

あとがきがあるとつい読みふけってしまうけれど(プロの書評や、作者の思いが書かれてしまうから気になってしまう)、

本書を通じて私たちは、好き嫌いや喜怒哀楽におさまりきれないもの…自分は何を痛みと思って生きてきたか、もっとも失いたくないものは何か、あきらめてきたもの、やり直したいこと、かけがえのないものなどに向き合うことになる。

こう書かれていた。

以前、私はなるべく同じ作家の小説は続けて読まないようにしていると書いたけれど、それは心のバランスを取りたいからでもある。一方では夢を持って青春を謳歌する疾走感のある本を求めていて、もう一方では桜木紫乃さんの小説で人間というものをもっとリアルに見つめてみたくなったりするのだ。

しっかりと頬を持ち上げる。口角も左右均等に。かなしみを殺して笑う。ねじれてねじれて、ねじ切れて、体も心もおかしな具合に軽くなっていた。
繕うことより、穴より小さなものをポケットに入れないのが自分という女だった。そうやって生きてきたのだ。

貧乏の中を、身が切れそうなほど寒い中を、必死に生きる者。淡い想いをいつまでも持ち続ける者。『ホテルローヤル』『誰もいない夜に咲く』『ラブレス』と桜木紫乃さんの作品を読んできたけれど、今回の作品で2009年まで書いてもらって、ようやく描かれている女性たちと同じ時代を生きているんだという親近感がわいてきた。

全体的に色で表したら絶対にグレーが混じっているような空気のただよう短編小説の、ほとんどどの章にも同じ女性・順子が出てくる。同じくグレーな空気が漂っていた山内マリコさんの『ここは退屈迎えに来て』の桑原くんみたいだと思った。


桜木紫乃さんの小説を読んでいるときはいつも力を振り絞る。たくさん考えたり、感じたりしながら読むのに、うまく言葉に言い表せるような感想が私の語彙力では出てこない。もっと言葉を知りたくなって、新しい本を探しに出掛ける。

この中の誰と同じ境遇になりたいか、と言われたら誰とも同じにはなりたくないけれど、彼女らが持っている覚悟や潔さ、弱さはどうしたら身につけることが出来るものなのかと思う。

蛇行する月 (双葉文庫)

蛇行する月 (双葉文庫)


ふたたびの『アマデウス』

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今年度の「午前十時の映画祭」上映作品がラインナップされてから、ずっと楽しみにしていた『アマデウス』。「午前十時の映画祭」は不朽の名作を扱っているから、いつもは古き良き作品を初めて観るのはスクリーンで!という楽しみ方をしてきた。けれど、『アマデウス』は違う。2回目の鑑賞になった。

映画が上映されたころ、私は幼稚園に通っていた。たしかDVDが発売され、レンタルが開始された頃に借りてきて、家族で観たのだった。

幼かった私に残った『アマデウス』の記憶は……「端正な音楽を世に出す性格にそぐわぬモーツァルトのちょっとお下品な感じ」「オープニングで流れる曲(交響曲第25番第一楽章だが、当時私はレクイエムだと勘違いしていた)」「手を交差してピアノを弾くモーツァルト」「サリエリのおどろおどろしい顔」くらいだった。でも、きっとこれは名作なんだなというのはどこかで聞きかじっていて私もそう思っていた。


あの時と同じように、映画のはじめに〈交響曲第25番第一楽章〉が流れる。暗い道を馬が走る。そうそう、こんな感じだったなぁ。

甲高い声で笑うモーツァルト。冗談を飛ばし、下品で天才なこの人と同じ時代に生きてしまい、名声をうまく世の中に放てないサリエリ。「神はあんなやつに味方するのか」と神をも呪い、モーツァルトへの羨ましい気持ちも憎しみが混ざりだす。

幼かった私は才能のことや嫉妬をする気持ち、音楽で生きていくことの難しさなどを知らなかったから、とりあえずモーツァルトがおちゃめな人だったんだな~という印象が残っていた。「午前十時の映画祭」に来るまでにレビューなどで「モーツァルトへのイメージが崩れました」という感想を見かけた。私も今日はじめての鑑賞だったらきっとそう思っていただろう。

この物語の主人公はヴォルフガング・アマデウスモーツァルトではなくて、サリエリだ。サリエリはウィーンの宮廷作曲家だった。

36歳になる少し前、というあまりに短い生涯だったモーツァルト。「凡庸な人」であったサリエリモーツァルトの死後、「私がモーツァルトを殺したんだ」とうめく。このうめきから、サリエリの物語が紐解かれてゆくのだった。

お金は持っていて、長生きをしたけれど思うようにいかず、嫉妬や憎しみの気持ちにまみれたサリエリ。いっぽうで、借金だらけで短命だったけれど、自分の作品に誇りを持って才能を歴史に残したモーツァルトサリエリは神に呪いをかけてモーツァルトを消し去りたかったけれど、モーツァルトのコンサートを逃さず通いつめる姿を見ていると「モーツァルトが気になって仕方ないんだな、本当は大好きだったんだろうな」と思う。

この2人の生きた時代が異なっていたら…2人ともが現代に生きていたら…モーツァルトの晩年の境遇にのせられて作品の中に響くオペラ『魔笛』はあんなにさびしいものだったっけ。

「きっとこの歌に極上の曲をつけて差し上げますよ」揚々と作曲をこなした時代の作品、酒と薬に溺れながら歯を食いしばって書いていた晩年の作品。映画を再び観てからはどんなふうに響いてくるだろうか。

3時間とかなり長い作品だけれど、モーツァルトやクラシックの曲をよく知らない人もきっと楽しめる作品だと思う。

読みかけの本となぞりかけの場所

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乗っていたバスでうとうとしていた。
ここらしくもなく、今日はいつもの身体のまわりをべたつく湿った風が吹いているかわりに涼しい風が吹いていて、セミの声があんまり似合わなかった。

目が覚めたら耳の中をイヤホンから流れていった音楽は消えていて、私はどこでバスを降りようか迷った。停留所が近づいて、行きたいところがあったのを思い出してあわてて降車ボタンを押した。

バスを降りても風はそのままだった。

「行きたいところ」へは行ったことはなかったけれど場所は知っていたので、そこに向かって歩いた。その途中で、その場所は私じゃなくて、もとは今私が読んでいる本の主人公が行きたがっていた場所だったことに気が付いた。

その本には、
「何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうか、自分でもよくわからないのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持ちになるの」
というせりふがあった。
でもいったんその場所のことを考えたらなんだかこのまま足をそこに向けていけば楽しいことがある気がして、本の主人公の気持ちに寄り添うことにした。

本には「喫茶店」としか書いてなかったけれど、私が足を運んだ「喫茶店」と雰囲気が近いものだったんだろうなと勝手に想像する。本に出てきた「喫茶店」は主人公ともう1人のほかにお客さんはいないことが多くて、若い女の人かおじさんが注文を取りにくる。

私が足を運んだ「喫茶店」は、厨房(?)からおじさんがこちらのようすをうかがい、若い女の人が注文を取りに来てくれた。黒いエプロンをして黒いタイツをはき、髪の毛を後ろにちょこんとまとめて清潔感と落ち着きのある女の人だった。満席に近いくらいお客さん(ほとんどが年輩の女性だった)がいるのに、大きな声で世間話をする人が見当たらないせいかとても静かだった。

自分には若い人が行くようなカフェは似合わないから、とそれらしき場所をみな「喫茶店」と呼ぶ人を思い出して、私は私が考える「喫茶店」(カフェではなくて)に前に訪れたのはいつだったかなと考えた。

前の前の記憶は、駅のビルに入っていたコーヒー専門店だった。もう何年も前になる。コーヒーが飲めないのにカフェよりもしずかな場所に行きたくて、カフェよりも値段が高いそのお店で「ウィンナーコーヒー」を頼んだことを思い出した。たしかソファーがふかふかしていた。

注文したカフェモカは、上品な淡い色の花の模様がついたカップに注がれてやってきた。すべて細かい泡で出来ているかのような飲みくちで、今日のさわやかな風みたいな味だと思った。生クリームの上に細く出したチョコレートソースがのっていて、1口ひとくち飲みすすめるたびに複雑なマーブル模様になってゆく。

不思議なリズムのクラシック音楽が流れていたと思ったら今度は演奏会のアンコールで聴いた「アヴェ・マリア」が流れ、ショパンの遺作のノクターンがオーケストラバージョンで流れたと思ったら太田胃散のCMの曲がやっぱりオーケストラバージョンで流れだした。

今読んでいる本の主人公の性格や感じ方に最初はなじめないでいた。主人公にすぐさま感情移入できてしまうような物語を選んで今まで読んでいたんだなあ、とぼんやり思った。そうそう、ぼんやりするところは似ていたかもしれない。似ていたからこそ、相容れないという印象を持ったのかもしれない。

講談社文庫を読むのも思えば久しぶりだった。私は新しい小説を買ったらすぐにカバーを取ってしまって読むので、灰色と白色が斜めに細くストライプになっている講談社文庫の微妙なざらざら具合が懐かしいと思った。たぶん、「今夜すべてのバーで」以来なのだと思う。そう気づいたら、今読んでいる本の主人公は読み進めていくうちになんとなく「今夜すべてのバーで」の主人公と似た嗜好を持ってきて、私はそれが心配だと思ったし、今読んでいる本のタイトルは「すべて真夜中の恋人たち」なので、やっぱり似ていると思った。

このあいだ、友人が「自分と似ている人ほど好きになれないけど、似ているんだと気付いてある程度長くつきあったら好きになったし、うまくやれるようになった」と言っていた。本を読み進めるうちに、私にとっての主人公もそんな感じになってきた。

まだ喫茶店を出ていないし、本も読み終えていない。そういえば読み終えていない本についてブログを書くのはあんまりないかもしれないなあと思った。カフェモカは、下の方にチョコレートの味になったざらめ糖がじょりじょりと入っていて最後まで美味しかった。(私が混ぜ忘れてしまっただけかもしれないけれど)

もう1回、思い出す。

「何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうか、自分でもよくわからないのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持ちになるの」

今読んでいる本も誰かがいつか読んでいるよとなにかで教えてくれたものだし、今いる喫茶店も友人がこのへんに来たときはよく寄るのだと言っていたところだった。

完全になにかを自分で生みだして、それで生きていくというのは時代が進んでいく中でどんどん難しくなる。例えばこの喫茶店ができたときより(たぶん昭和の時代にできたところだと思う)、どうしても情報にまみれている。そうすると思いついたと思ったことも既出だし、いつも誰かのなにかをなぞって生きているという感覚になる。

悲しいし、便利なことだと思う。

本がおもしろいので、
もう少し読み進めてから出よう。
ここはそんな選択も許してくれるような
ゆったりした場所だ。