ラブレス

ラブレス、と聞いてついつい翻訳したがる。
愛がない…あいなし、だから…つまらない?

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「誰もいない夜に咲く」「ホテルローヤル」に
続いて桜木紫乃さんの本を再び
手に取りたくなったのはきっと、
北へ渡った人、それから北へ渡りたい人と
最近話したからだと思う。

(「誰もいない夜に咲く」についての記事)

日本の最北端、北海道の乾いた大地を舞台に
繰り広げられる人間模様を淡々と、
それでも鋭く温かく見つめ続けているのが
桜木紫乃さんの物語だ。

馬鹿にしたければ笑えばいい。あたしは、とっても「しあわせ」だった。風呂は週に一度だけ。電気も、ない。酒に溺れる父の暴力による支配。北海道、極貧の、愛のない家。昭和26年。百合江は、奉公先から逃げ出して旅の一座に飛び込む。「歌」が自分の人生を変えてくれると信じて。(Google books のあらすじより)
「ラブレス」で描かれる時代は、戦後の、ちょうど私の祖母が生まれたあたりから「金属音に近い、硬い声のボーカルが人の世や男女のままならない思いを歌っていた」椎名林檎のデビューアルバムが「10年前」になるくらいの現代だ。

過去に読んだ直木賞受賞作品「ホテルローヤル」は、廃墟と化したホテルがはじめにでてきて、そこからどのような経路をたどってホテルが廃れていったのか、建物にかかわる人々それぞれになまなましく焦点をあてて描かれていた。どちらかというと現在から過去へどんどん遡る方法、アーティストのベストアルバムがデビュー当時の曲から現在へとトラックを進めるのに対して木村カエラの「5years」がやったような方法がとられている。

「ラブレス」でも、現在(椎名林檎さえ懐かしくなる時代)と過去(戦後まもない時代)を交互に著していた。バスで何気なく隣に座るお年寄りの過去を覗き見しているような気持ちになる。

「女ワラシふたり産んだって、男ワラシなんぼ産んだって、いいことなんかなんもなかった。いてえ思いしただけだ。ばかばかしい」(主人公・百合江の母の言葉)
幼い頃から「愛のない家」に育ち、そのあとも数々のつらい別れとその日暮らしを続けて年を重ねた百合江の涙は乾ききるのも仕方ない。つかの間の愛だって、淡々とした、桜木紫乃さんらしい描き方が百合江の人物像を浮き上がらせる。

百合江だけでなく垢抜けた見た目の妹・里実をはじめとする彼女の家族や、たくましくどんな強い風にもしなやかに吹かれてくれる柳のような宗太郎をはじめとする一座の仲間、百合江が結婚生活を始めたときに出会った旅館にかかわる人びと…だれもかれも土地の色が人柄にも濃く残る時代をまっとうする人間ばかりだった。

「ラブレス」を読み進める上で欠かせないのが、歌の存在だ。時に百合江の両親の仲を救い、時に百合江自身の希望になり、時に百合江を苦しめた歌。16歳かそこらで奉公に出た少女が、自分の人生を生きるために共にあることを覚悟した1つの宝物だ。

「浮き世を流れる川のほとりに、ぱっと開いた花ふたつ。一条鶴子一座が誇る名女形滝本宗之介、あちらのピアフもこちらのひばりも並んでひれ伏す杉山百合江、二大スターの登場でございます。みなみなさま、今宵もどうぞ心ゆくまでお楽しみくださいませ。」(百合江が飛び込んだ一座の仲間、ツネさんお得意の口上)
百合江は陽が沈んだあとの街を歌いながら歩いている自分たちを、ネオン管にぶつかっては羽を傷める蛾のようだと思った。
金勘定が先にある歌い手は、「華」ではなく「生活」を背負っている。
ちぐはぐな心と体は、歌うことによって焦点が合う。歌っているあいだは、心にも体にもなんの矛盾も生まれなかった。
もしも二人が愛せるならば、窓の景色もかわってゆくだろうー次々と流れてゆく窓の景色を愛すればよかったのか、石黒を愛することが出来れば幸せだったのが、歌詞はどうにでも取れた。見たいように見て、聞きたいように聞く、「自分が思ったように歌え」。それが一条鶴子の教えだった。

物語の残りもあと少しというころ、ちょうどつけていたテレビが歌謡曲の特集をはじめた。観客の前で「時の過ぎゆくままに」を歌い上げる百合江を描く活字を目で見て、耳には沢田研二本人の「時の過ぎゆくままに」が聴こえてくる。泣かせにくるなよ。

そう、歌と同じくらい、この物語でタイトルにつくほど重要なモチーフが「愛」だ。
男も女も、心だけで繋がり通せるほど甘くない。それでも、心が弱くなった瞬間はそんな錯覚を許しそうになる。

1年の間に私は何冊も本を読んでいる。
中にはノートに記録したそばから内容を忘れてしまいそうな1冊だってある。けれど「ラブレス」は読み進めている期間、本に触れていない時もつい続きが気になったり、バスを乗り過ごしそうになるくらい物語の舞台・標茶や釧路や東京、仙台に浸っていたりした。読みおわった今でも忘れられない、恋をしてしまうような1冊だった。

「ラブレス」の物語にBGMを流すなら、けしてドラマチックな映画音楽はあてはまらない。「泣きメロ」にとらわれない音色そのものの美しさや、歌詞がつくならその歌詞の深みに泣かされるのだろう。

十九、二十歳の娘には、親も家もなにもかも、捨てられるエネルギーがある。ハギも自分も、同じではなかったか。みな同じように脱皮を繰り返し、螺旋階段を上るように生きてゆくーー

全体的に暗く重い雰囲気のある物語ではあるけれど、「お先真っ暗でも大丈夫」「開拓心と芯をもちな」と舞台口調で説いてくれる百合江の声がひとすじの光とともに聞こえてきそうだ。

そして、ひとつの土地・釧路を味わいつくしている桜木紫乃さんには、これからも強いまなざしがこもった小説をたくさん書いてほしいと願う。

直木賞候補になったときの、著名審査員による書評はこちら。


ラブレス (新潮文庫)

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