顔なんて、人生で変わる。
眼鏡屋の前を通った時、
ある広告が目を引いた。
「人生なんて、顔で変わる。」
だから自分の顔に合った眼鏡や新しい自分になれる眼鏡を探して秋を楽しもうね、という広告なのだった。
私は最初見間違えた。私はどっちかというと、「顔なんて、人生で変わる」と思っているからだ。
こんなこと前も書いたなと思って見返してみたらあった。ココシャネルの言葉「20歳の顔は、自然の贈り物。50歳の顔は、あなたの功績。」をお守りにしていた。
もともとの姿は変えられなくても、話す言葉や言葉、姿勢、髪型、身につけるもの、心構え、暮らしぶりで人は顔つきが変わっていくのだと思う。
ときどき忘れそうになるけれど、そういえばそうだった、ささやかなことを大切にしなくてはなと気付くとはっとする。
人生が顔を作り、その顔がまた
人生を作るのだろう。
君の名は。 モノローグの秘密
最高気温21度。
9月の気温や体感温度をわすれていた。
何を着ようかと思って真夏の服に羽織りもので外にでたら、意外と寒くて失敗した今日だった。夏はもう、いよいよおわったんだ。
まだ夏のにおいが少しするころ、いつもの映画の友と共に『君の名は。』を観た。
バスタ新宿、サザンテラスのスターバックス。遠くに見える都庁の光とそのかたち。ちょうど昨晩にいたところだ…美しい声と、音楽と、映像にすぐにひきこまれた。
公開してすぐは新海作品ファンや声優陣のファン、アニメが好きな人たちを中心に話題を呼んでいた。それが今では口コミが口コミを呼び、『君の名は。』は老若男女に愛される作品になっているという。
主人公たちの気持ちに沿うようにやさしく語られるRADWIMPSの音楽。疾走感。びっくりする展開…スクリーンを見つめる人たちを残らず糸守と東京に連れてくる。気付くと視界がぼやけて見えなくなってくる。すごかった。これは、自信をもって人にすすめたくなる。これから仲良くなりたい人にも、いまでも大切な人にも、観てほしい映画だった。
しばらくして、録画してあったEテレの番組『SWITCH インタビュー 達人達』を観た。対談するのは、『君の名は。』の監督・新海誠さんと作家の川上未映子さん。
(川上未映子さんの著書に書いて今までに書いた記事)
新海さんは、『君の名は。』を誰に向かって作ったのか。その問いの答えは、「過去の自分と思春期の人たちへ」。
思春期の少年少女が観たらきっと忘れない夏の思い出になると川上未映子さんは言う。そして、思春期を過ぎた大人にも、『君の名は。』のどこかに自分にとっての懐かしさが必ずあるのに気付く。私にとってそれは、中学生のときによく聴いたRADの楽曲であり、林間学校でクラスメイトと自然いっぱいの香りとともに見上げた星空であり、もう思い出せないような気持ちだって含まれる。
田舎で暮らす三葉と都会で暮らす瀧が夢の中で出会ったように、「いつかこれから、まだ出会っていない大事な人に出会えるかもよ」というメッセージも込められているという。
人物もさることながら、人の心情が反映されているような背景の描かれ方が美しかった。新海さんは「昔から雲の絵を描くのが好きだった」と話す。
それから、物語を盛り上げていた三葉と瀧それぞれの「モノローグ」。私には逆にそれは、気恥ずかしく聞こえた。この気恥ずかしさはどこからくるのかが疑問でもあった。
そして新海さんはそれこそ、モノローグにこだわりをもって映画を作っているのだと番組で話している。『君の名は。』ではモノローグによって観客を思春期に誘う。新海さんはモノローグを「詩のような、音楽のようなもの」とし、「北の国からがすごく好きで、そこで使われていたモノローグに影響を受けている」のだという。
私にとってモノローグが気恥ずかしいと思ったのはきっと、同じくらい叫びだしたくなるようないつかの日を思い出したからかもしれない。
普通の高校生映画を見た時のような「もう戻れないあの日感」はあんまり感じなかった。きっとスクリーンに足を運んだ人のその後にも、こだわり抜かれた監督の「光」がさしている。いつまでも余韻に浸りたくなるような、美しい映画を久しぶりに観た。
朝にも夜にも向かない映画
私は映画を観ながらときどき考える。
もし1日の中で
この映画を観る時間を選ぶことが出来たら
朝・昼・夜、いつにしよう?
「怒り、1枚お願いします」
「上映が始まっていますがよろしいですか」
「かまいません。お願いします」
傘を畳みながら、スクリーンに駆け込む。いつも予告編を堪能するために10分前アナウンスがかかったらすぐに入場するようにしている。映画に遅刻するのはたぶん初めての経験だった。
渡辺謙が、眉をひそめて夜の歓楽街で何かを探してる。そのシーンが私の「怒り」のはじまりだった。渡辺謙が壁1枚の向こうの物音が聞こえるような薄い扉をあけるとそこにはぐったりとうつ伏せになっている宮崎あおい。にじんだマスカラが瞳の下に沿うように付着していた。
いったい何があってこんなシーンが流れているの。やっぱり遅刻してまで今日、観に来なくてもよかった。最初から観ればよかった。そのうち2回目を観にいくことになるかもしれないな、と思って腰をおろす。
"愛した人は、殺人犯なのか?"
という言葉が予告編で流れていた。
信じた人、じゃないところがみそなのか。
残虐な夏の日の殺人事件の犯人を疑われているのは、突然ふらりとそれぞれの街に溶け込んだ綾野剛・森山未來・松山ケンイチの3人。犯人は1人しかいないから、3人のうち2人は事件に関係ない。映画のあと、私はいったい途中で誰を疑っていたのか、すっかり忘れてしまった。
信じて絶望を見る人も、疑って絶望を見る人もいる…というツイートを映画を観る前に読んだ。そのときはどういうこと?と思ったけれど、エンドロールの黒い余白を見つめているうちにその意味がはっきりとわかった。
ひどいことがたくさん、登場人物たちの身に起こった。私は沖縄の美しい海の景色が、美しいちいさな離島が、あんなに地獄に見えたのは初めてだった。愛する人と住んでいた部屋があんなにもの悲しい場所になっていくさまも。私が劇中の誰を疑っていたかを忘れてしまったように、私はなんとなく、つらい目に遭った登場人物たちもあの日々のことはきっと思い出せなくなるんじゃないかと思った。
言葉で言い表せないくらいつらい思いをしているときとはそういうものだと思っているから。
とにかく、役名を覚えられないくらい観ていて私もつらかった。あんなに泣き叫ぶ宮崎あおいと広瀬すずは初めて見たし、びっくりした。朝にも夜にも、このぽっかりした気持ちには向かない映画だったと思う。
最初は冒頭が知りたいから2回目も観に行けばいいや……と思っていたけれど、きっとまた誰を疑っていたか忘れるかもしれない。この映画がどこか遠い国やファンタジーの世界で起こることではなく、今からまさに自分の身にも起こるかもしれないことを描いていた。これがリアルだ、とは言いきれないけれど。
逃亡中の殺人犯の部屋からチラシや窓にたくさんの字を書いていたのが見つかったシーンがあった。駅員にきれる客(タイムリーな話題)、店にいた失礼な客、キモい。ウケる。「なんでもかんでも書かないと済まないんだな」という警察の言葉。妙にドキッとさせられる。
何年か経って映画がDVDになったら、もう1度目を開けて見つめたい映画だった。
孤独な夜のココア
三十路を越したハイ・ミスはみな、すらりと粋で、ちょっとばかし皮肉で、適度に意地わるで、神秘的で、美しかった。
初夏に小旅行で訪れた本屋で、「ジャケ買いしたい本特集」をやっていた。そこに置いてあったのが
田辺聖子著『孤独な夜のココア』
孤独な夜のココア、と聞いてなにを思い浮かべるだろうか。なにが孤独なのか。どんな味がするのか。私は眠れないつめたい夜、家族が寝静まる気配を感じながらマシュマロを浮かべてこっそり飲むあたたかいココアを思い浮かべた。
ちょっと季節的には早いかもしれないけれど、涼しくなってきた今が読みどころなのだ、この作品は。
あとがきに綿矢りささんは書く。
頼れる、守ってくれる人がいい、自分よりデキる男の人がいい。そうでなく、むしろ男の人の幼い、世間の色に染まっていない、自分で自分を飼い慣らせていない部分を愛する、でも決してだめな男が好きというわけではなく、あくまで微笑ましい部分を愛している。
そう、『孤独な夜のココア』で描かれる女性たち(短編集なのだ)は、ちょっと強い人たち。
カッとなって怒れた日は、悲しみを知らない日だったのだ。
そういう気持は、しぜんに大倉サンに伝わってゆくのかもしれない。人間のきもちは、さざ波の波紋のようなものだから。
私は密かに思っている。ヌケヌケとした面をもつ恋は、少くとも二十五歳、お肌の曲がり角の女にはもう似つかわしくない。二十五の女の恋は、もっとしゃれて、すっきりした恋をするべきである。
もはや、あの、雨の降ってた残業の夜の、たのしいこだわりのないいい雰囲気は、二度と生まれないという、不安な予感がする。恋というものは、生まれる前がいちばんすばらしいのかもしれない。
短編集には表題作がつきものだけど、この短編集の中には『孤独な夜のココア』という短編は見つからなかった。あとがきの綿矢りささんは、子どもの頃から田辺聖子さんの作品に親しんできたという。ああ、だから、若い齢であんなに老成した作品がかけるのかもと納得させられた。
年齢的にはいつか通る道で、『孤独な夜のココア』に描かれる女性たちは私を待っている。彼女たちのようにすてきに歳を重ねていけるだろうか。
「やさしいことのかずかずを エイプリルフウルの宵なれば 嘘もまことも薄情も けさはわすれてあるべけれ」と、夢二は唄っている。でもいまはもう翌朝の午前一時、キヨちゃんのやさしさはうそではないかもしれない。
そうしてまた、思う。
年を重ねた人の恋も、晶子のひなげし(コクリコ)の恋のように、いちずで烈しいものかもしれないって。
ときどき夢二や与謝野晶子の言葉も生かしつつ、ちょっぴり昭和のにおいを残した語り口で進められる女の人たちの物語。ぜひこの秋に、おいしいココアと一緒に味わってみてはどうだろうか。
一度観たあなたと分かち合いたくなっちゃうシン・ゴジラ
人生で初めて、同じ映画を
スクリーンで2回も観てしまった。
『シン・ゴジラ』
1度観ただけではおさえられなかった。
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どんな映画だったかつぶやきたかった。 #細かすぎて伝わらないシンゴジラ タグでならギリギリ許されると思ったが、なるべくTwitterでネタバレはしたくない。でも、ブログでなら……?
ということで、これから好きなようにシン・ゴジラのことを書いていきたいと思う。(以下、敬称略)
予告編で一気に引き込まれた。今までゴジラ・シリーズを観てこなかったし、興味もなかったくらいだったのに。/どんな予告編だったかというと、とにかく目立ってた。他の映画の予告は印象的なシーンとセリフ、文字での煽り文句があって観ている人を惹きつける感じなのに、シン・ゴジラの予告編はといえばあの音楽が流れ、主要キャストが慌ててる様子などがうつされ、悲惨な東京の状態がうつされ、ゴジラが叫んでただけでシンプルだったのだ。/そのシンプルさにやられた。春先からたくさんスクリーンに通ったが、予告編を目にするたびに期待が高まった。/そして公開してからというもの、著名人がSNSで「シン・ゴジラ」が面白かった、しかもこういうところが面白かったというのを具体的につぶやきだした。口コミで広がっていた映画。/
知らなかったから結構びっくりした
映画館で手にしたチラシに前田敦子って書いてあったのに、一回目観た時は見逃していた。ちょい役だった。/映画を観る前にゴジラの声は野村萬斎だと知ってしまっていたのに、いざ映画がはじまるとあまりの迫力に野村萬斎ののの字も思い出せなくなっていた。/音楽がワクワクする。デンデンデンドンドン/「完璧とは言えないが、最善を尽くしている」というセリフがあったとき、ああこれは日本を描いているんだなと突然腑に落ちた。/何にしろ会議が多い。しかもとくに進んでない。なにしろゴジラについて、はじめは何もわからなかったのだ。/
長谷川博己について、今までヘタレっぽい役の作品しか観たことがなかったので、かっこよって思った。/
黒の女教師のときの市川実日子
サムライ・ハイスクールのときの市川実日子
三浦春馬が受験勉強に集中できなさすぎて、とにかく意味なんて考えないで参考書に書いてあることを覚えなさいと言っていた市川実日子。好きだった。
「シン・ゴジラ」の市川実日子は前髪があった。ちょっとぼさぼさだったのがよかった。「よかった」と言って最後に笑ったのも、よかった。/ラーメン伸びちゃうところが面白かった。上に立つ人が伸びるラーメンに悲しんだのはどのくらいの確率なんだろう。/ザラはどこ?/
ドレミファミーソーレーソードレミファミッ/レシファーーーーーーーミレミーーーーーーーレドレーーーーードシドーーーーー/LINEで友人に送ったらどの曲かすぐに分かってもらえた/
駅メロ的に一番私の好きな京浜急行がさっさとゴジラにやられてしまったところが悲しかった。/避難するときみんないろいろ持ち運ぼうと思ってあたふたしてるとき、市川実日子と声が素敵な高橋一生がさっさとパソコンを折りたたんで立ち去ったところがかっこよかった。大事なものが多すぎるのも命とりなんだ。/高良健吾が「みんな家庭もあったりするのに、不眠不休で働いててすごい。」/
みんなが画面をのぞき込むシーンがわりと出てきた。あれは、カメラに向かって演技するんだよね。私はどうしても笑っちゃうと思う。/前住んでたところがゴジラにやられてたとか、就活して落とされた会社がゴジラにやられててすっきりしたというのをtwitterで見た。/Hちゃんと訪れた銀座のあの交差点も火の渦にまかれてた。/
歌入りのレシファーーーーーーーミレミーーーーーーーのところは悲惨すぎて何回観ても泣ける/自衛隊、かっこいい。(みんなと意見が一致する)/無人運転の在来線アタックがほんとにかっこいい。京急が仲間入りできなかったのはかわいそう。/
東京から帰る前、ゴジラが息絶えたあたりのところで、友達とお茶した。
新丸の内ビルディング。2回目に観たとき、ゴジラを倒すのにドミノ倒しとして使ったのか、ゴジラに倒されたのか、どっちだったかなって思って気になって観てたけど、よくわかんなかった。/
なんか映画観ようと思うんだけど、という友達に自信を持って勧められる映画だった。同じ日に私の友達2人が別々にシン・ゴジラを観に行ったくらいだった。/勧めると、また観たくなっちゃうからあんまり勧めたくない。/
4DX編(これが2回目の鑑賞)
デンデンデンドンドンのとき、音楽に合わせて椅子が前後左右にかたむくのが楽しかった/「豪州を外遊中」をずっと「豪遊中」だと思ってた/中略/パタースンさんからいい香りがしそうだったし、男の人たちは数日同じシャツを着続けて少しにおうらしかったから、期待と不安が入り混じってたけど、とくににおいの強いシーンはなかった。煙もよくわからなかった。/発射のとき、肩の後ろからプシュプシュ風が出たり、背中をどんどん突かれた。背中は、マッサージチェアみたいだったのでどんどんやってほしかった。/水も出た。あんまりゴジラ暴れないで〜って思った。涼しい。/4DXのときのほかのお客さんは、わりと2回目に観に来てる感じのする人が多かった。みんな同じところでくすくす笑ってたから。/
誰かが言っていたけど、季節感のない映画だ。とくに寒いとか、暑いとかはない。/ジャック&サリー/最後のシーンはなんだったのか、様々な憶測を呼んでいる。私はゴジラのしっぽがアップになったとき、枝分かれしてるのは胎児に見えた。なんだったんだろね、ほんと。
そうして生きていく
「真紀さん、いい女ってのは一生かかっても主役にはなれないのよ。主役はいつだって愚かな女なの。覚えておいてね」
生まれ育った北海道・釧路に根付いた作品を発表し続ける作家、桜木紫乃さんの本を何冊か読んできた。読んでいくうちに、行ったことのないはずの北海道の景色や温度を体験したような気持ちにいつもさせられる。
他のかたが書いた書評なんかを読んでいると、デビュー作の『雪虫』が凄い、というのをよく目にする。夏休みに、『雪虫』を含んだ短編集『氷平線』を読んでみようと思った。
桜木紫乃著『氷平線』
できる限りマリーが幸福であることを祈った。自分しか頼る人間のいない場所で、少女が不幸になるのは嫌だった。
「関係ないのよ、何も。わたしは圭ちゃんが欲しかっただけなんだから。人の気持ちなんて死んだって手に入るようなもんじゃない。欲しい男をいっとき手に入れて、それが悪いっていうならそれでも構わない。私を責める人は自分も同じことしたい人たちよ」
貧しい酪農家の家に、海の向こうからお嫁さんがやってくる話。振袖の仕立て屋とかのこ屋とある男性の三角関係。東京から北海道に嫁いできたある女の肩身の狭さ。代替わりしたての床屋によく訪れる、身なりの美しい女の秘密。離島に行くことになった、歯科衛生士の運命。そして表題作『雪虫』は、オホーツク沿岸の町で再会した男と女の話だ。
この作品は一週間滞在した東京の夜、私のそばにいてくれた。眠る前に一章読み進めるのがいい感じだった。
滞在中に、ちょうど釧路に住む子にも会えた。せっかくだから、北海道のことももうちょっと聞いてみればよかったな。
桜木紫乃さんの小説を読み終えて最後に解説を読むのも楽しみだ。『氷平線』では、「それでも人は生きていく、ではなくそうして人は生きていくということを桜木紫乃は書いている」というようなことが書いてあった。まさにそうだな。
情を求めるでもない、誇張するでもない、ただ淡々とさまざまな人の運命を見つめていく。私は桜木紫乃さんの作品をいくつも読み進めるうちに、北海道のことだけでなくさまざまな人の生業や事情についても学べている。
夏に涼しさを求めるなら怪談、というのは一般的だけれど、桜木紫乃さんの作品を読むのもいい。怪談よりひんやり、しかし北の大地で生きる人々の心にふれてじんわりする。
残り全部バケーション
「問題」児がいるのであれば、「答え」児もいるのではないか、岡田君が問題を出し、別の誰かが答えるのではないか、と発想したほどだ。
先月、東京で6年半来の友達Hちゃんに初めて会った日のこと。おすすめの映画や本について話してたとき、何気なく開いたネットのページに美味しそうなおやつがあらわれた。
伊坂幸太郎著『残り全部バケーション』
「これはジャケ買いしちゃう表紙だよね」「私これ絶対読む」Hちゃんの言葉を忘れていない。彼女に会えたことが嬉しくて、余韻に浸りたかったので後日新宿の紀伊國屋書店に行って私も『残り全部バケーション』を手に取った。(Hちゃんには言ってなかったけど!)
伊坂幸太郎さんは有名な作家だけれど、私は今まで読んだことがなかった。それこそHちゃんと会った日のブログ記事に出てきた国語の先生が好きな作家だった。初・伊坂なので本を開くのにちょっと緊張した。
「過去のことばっかり見てると、意味ないですよ。車だってずっとバックミラー見てたら、危ないじゃないですか。事故りますよ。進行方向をしっかり見て運転しないと。来た道なんて、時々確認するくらいがちょうどいいですよ」
「レバーをドライブに入れておけば勝手に前に進む」(物事は勝手に進むから、気負わなくていいよ)
なるほど、伊坂はいい言葉を「いい言葉」と思わせる文章を書く人だ、名言がザクッザクと掘り出せちゃうんだなと序盤から思った。まず、『残り全部バケーション』という潔さがいい。
当たり屋、強請りはお手のもの。あくどい仕事で生計を立てる岡田と溝口。ある日、岡田が先輩の溝口に足を洗いたいと打ち明けたところ、条件として“適当な携帯番号の相手と友達になること”を提示される。デタラメな番号で繋がった相手は離婚寸前の男。かくして岡田は解散間際の一家と共にドライブをすることに―。 (Google Booksより)
ざっくり言ってこういう話なのだが、こりゃページをめくる手が止まらなくなっちゃう本だ。
溝口と岡田を中心に、各章でさまざまな人が出てくる。とくに岡田に関しては幼少時代までさかのぼる。「問題児」だった。どうやら大人になっても危なっかしくて、さらりとしていて、関わった人からしたら気にせずにはいられないタイプの人のようだ。
ネタバレになっちゃうので結末は言えないけれど、「そうくるの!!」と唸ってしまいたくなる。(読んでいたのはバスの中だったのでエンジン音に紛れても唸れなかった)
伊坂幸太郎さんの作品をもっと読んでみたくなった。いい、伊坂・デビューだったと思う。
読書するとき、どうやって本を選んでいるのという質問をたまに受ける。私は、マインドマップをひくように、同じ作家の本や巻末にある関連書籍を読んでいくことが多い。でもそればかりだとほんとうに同じような本しか読まなくなってしまう。
そういうとき、Hちゃんとのやりとりのようにパッと新しい「点」になる1冊が見つかるとたのしい。まるでトンネルを進んでいくと見える光のように思える。またいろいろ読んでいこっと。
それから忘れてはいけないのが、「ジャケ買い」したくなっちゃうこの表紙。
田中達也さんという、ミニチュア写真家の作品のようだ。ソフトクリームを登山道に見立てる。柿の種はボート。傾けたパソコンのキーボードは、河川敷。この人のことは、東京最終日に会った高校の友達が教えてくれた。
なんて柔軟な発想力なんだろう!さっそく、インスタグラムもフォローして見ている。
『残り全部バケーション』は、伊坂幸太郎さんの作品の魅力も、田中達也さんの作品の魅力も詰まったオイシイ作品だった。